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お千のブログ

気ままでお気楽な写真と徒然の想いを綴っています。暇を見つけた時は時代小説を書いています。

時代と共にずれる時間感覚 

私たちが若い頃、昭和40年代は昼夜の区別がちゃんとできていたように思う。
仕事で遅くなって、終電車に乗ったことがありました。

一つの車両に、5~6人くらいの人がいました。
仕事に疲れて、または呑み疲れて眠ってる人たち。
ちょっと危なげなお兄さん。
若かった私は怖くて、降りるまでずっと下を向いていました。

それから40年。
終電車を見かけたことがありました。
朝のラッシュ時のように、椅子に腰かけられなくて、たくさんの人、勿論女性もいましたが、
吊革にぶら下がって、揺られていました。

ビックリでした。

そして知り合いの若いお母さん。同窓会だと言うので、小さい子どもを実母に預けて、
出かけました。帰ってきたのが午前3時。

そんな時間まで営業してるお店があるんだと、またびっくり。

そして、先日母の見舞いに帰省した時、ビジネスホテルに一泊しました。
そしたら、二十歳ぐらいの人10人ほどと同じ階でしたが、夜中の2時ころまで騒いでいました。
眠れない夫が、ドアを開けると、廊下でも話をしていた人がいたので、
「ちょっと、静かにしてもらえませんか」
と言うと、20分ほどして静かになったのですが、結局夫はその音と、疲れで眠れなかったのです。
私?雷が鳴っても眠れるので、寝ていましたが、さすがにその騒音では起きました。

私が物音で目が覚めるって?めったにないことです。それほど騒がしかったのです。

で、信じられないのが、朝、食事に行くのに部屋を出たら、隣の部屋のノブに、「起こさないでください」
という札がぶら下がっていました。

起こしたろうか!

そんな気になりましたね。何という人たち。

いい若者もいる一方で、いるんですね、こんな人たちも。
これは時代の感覚というより、個人の常識や思いやり、躾の部分のような気もします。

小さい頃に私たちのすることにびっくりしてた、祖母を思い出しました。
今度は私たちがびっくりする番になったのですね。




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2018/11/01 Thu. 10:51 | trackback: -- | comment: 10edit

母の見舞い 

母は、97歳です。
私が子供の頃から体が弱かった母でしたが、何とか80歳を過ぎたなあと思った頃から、
色々な病気になり手術も何回か受けました。

高齢だったので、高知まで日帰りで様子を見に行ったこともあります。

病気が落ち着いてきた頃から、少しずつ始まっていた認知症が、急にすすんで、
同居していた兄の家族さえわからなくなってしまいました。
だからそばを離れて、50年近く経った私のことなどわかるはずもありません。
それでも、だいたい年に一度くらいは顔を見に帰っていました。

ところがここ4年ぐらい諸事情で帰ることができませんでした。
帰ろうと思うと何かそれを阻む出来事があったのです。
4年前に見た母は、それは痩せて、骨に皮が張り付いているようでした。

あれからどんなになっているのだろうと気になっていました。

兄の家族が近くにいるのだから、何かあれば知らせが来るのはわかっていました。

でも何かあって帰るのではなく、普通に生きている母を見たかったのです。

私の場合は仕事を探しに上阪したわけではありません。
私には過ぎた職場に勤めていましたし、そのまま年をとっても、老後の生活に困ることはなかったのです。

それを私のわがままで、親も、兄弟も、友達も、よくしてくれた職場の人達も,みんな置いて、
大阪に出てきてしまいました。

その時の私の行動にみんな「なんで?」でしたが、母だけは、
「女の子でも、自分がしたいことをすればいい」と、背中を押してくれました。

結局それはできずに、今日に至っていますが。
それでも人並みに、妻になり母になることはできましたが、私の能力の一番劣っているところばかりで、
もがいていたようで、周りの家族にはしんどい思いをさせてしまったかなと。

それはさておいて、
やっと帰って、会った母は、私の想像を、いい方に越えていました。
顔にもそこそこ肉が付き、年相応の穏やかな顔で眠っていました。

母は、耳も聞こえません。
音のない世界で、子供たちの顔も忘れてしまって、どんな思いでいるのだろうと、
思っても仕方がない思いが首をもたげます。

大変な戦争の時代を潜り抜け、結婚をし、子どもを産み育て、
今病んで床に伏しています。

でも念願だった孫と暮らす生活はできました。
その孫たちも覗きに来てくれてるようです。
貧しくても、辛くても、不満を述べない母です。

私は何にもしてあげられなかったけど、
お母ちゃんよかったね。





2018/10/28 Sun. 00:01 | trackback: -- | comment: 6edit

父と母の顔 

顔の話、第2段です。

私の母は、大正10年生まれ。
その頃の素敵な女性は「色白」だったそうな。

色の白いは七難隠す

などと言われた時代です。

ところが母は色黒。
とても嫌だったようです。

で、人を見るときはまず色の白さが気になるようで、
「お千、さっき友達が来てたけど、えーと、名前忘れた、色のものすごく白い……」
「ああ、Nちゃん?」
「そうそう、Nちゃん!」
と、こういった具合に人の特徴はまず色の白さ、黒さからでした。

母は、色黒にコンプレックスが強かったようですが、私から見ると、とにかく目元のくっきりした顔で、
私は母のその大きな目と長いまつ毛がほしかったのですが、それを受け継いだのは、兄一人でした。

母が父と結婚して初めて授かった子供が兄です。
自分にそっくりな、色の黒い子を見て、男の子だから、まあいいか、と思ったそうな。

2番目の子の姉は、父親そっくりの雪のように白い肌をした子どもでした。
母は色の白い女の子が生まれたと、それは喜びました。

が、母の姑に当たる、父の母は、「M(兄)は男の子やきこんなに目元がぱっちりしてなくてもいい、そのぱっちりした目はT子(姉)に欲しかった」と、そう言ったそうです。
母は、自分の経験から、女の子は色の白いに限ると思い込んでいたので、姑の言葉も気にはならなかったみたいでした。
今なら、”小麦色の健康的な肌”なんて言われて、母の少女時代もよかったでしょうけど。

それから40年、私たちは大きな病気をすることもなく育って、家庭を持った後、
私たちの大好きな父は黄泉へと旅立ちました。
兄57歳、姉55歳、私53歳の年の暮れでした。

父が亡くなったお通夜の日。
私たち3人に弟を加えて、兄弟姉妹4人と、父の娘婿2人の、計6人が夜伽をすることになりました。

父の思い出を話していたら、色の白い父と、色の黒い母の話になりました。
父は本当に色が白かった。
母は色は黒かったけど、あの大きなぱっちりとした目と長いまつ毛が欲しかったと私と姉が言い出しました。

それを受け継いだ兄が羨ましいと。
兄の色の黒さは、精悍な感じがするので、マイナスにはならない。
そんな話が出た時、

「そうそう、お兄ちゃんを見て、友達が、男前のお兄ちゃんの写真をもらってくれないって、頼まれたんよ」
と、姉が思い出したと言いながら、話し出した。
兄は、ちょっと照れたような顔をした。
そういえば、兄は結構格好よかったな、と私も思い出した時、

横から夫が目をこすりながら、
「・・・見る影もない!」

と、ボソ!


全員が、大爆笑!


「ちょっと、お通夜やで」
誰の声だったか、笑い声を消したのですが。


父が亡くなって、みんなで大泣きした後でした。

父が元気な時は、私たち兄弟姉妹が集まって、話して笑い転げるのを、父は嬉しそうに見ていました。

「お父ちゃんは怒ってないよ。みんなで笑い転げるのをいつも嬉しそうに見てたから」
そう言ったら、兄も姉も弟も、頷いていました。


それにしても、夫は、もう

なんで、こんな時まで笑わすの!




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2018/08/26 Sun. 00:00 | trackback: -- | comment: 4edit

化粧で、顔が変わる!? 

まだ40代くらいの頃だったと思う。

よく知っている寿司屋さんから出前を取った。
ご主人が届けてくれたのですが、
玄関に出た私を見て、
「ここの奥さんによう似てはるけど、妹さん?」
と、言われて、
何のことかわからず、一瞬、ぽかんとしていると、
尋ねたらいけないことを尋ねてしまったと思ったのか、首を振りながら、
すぐ、お金を受け取って、帰っていった。

妹さん!?

なんじゃ、それ!

ふと、私は今スッピンであることに気付いた。

化粧してなかったんだ!

だからか~と、思っては見たが、
やっぱり解せない。

私って、そんなに厚化粧をしてるわけではない。
一個のファンデーションが長持ちするのは友人以上だ。
要するに薄化粧である。

そんなに変わる? 妹に間違われるくらい?

妹なんていないし。
少し考えると、

変わるかもね~

そんな気もしてきた。

私の顔って、パーツはすべて付いてはいるけど、影が薄い

とにかく薄くって、ないに等しいものもある。

例えば、眉、まつ毛、目の輪郭、これらはとにかく薄い。
だから、眉は書く、アイラインは細く書く、マスカラは少ないまつ毛に出きるだけボリュームを付ける。

それだけだけど。

う~ん、やっぱり、変わるか!?

そうよね、変わるよね!




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2018/08/21 Tue. 00:00 | trackback: -- | comment: 6edit

好き嫌い 

今の私には、食べ物の好き嫌いはない。
好き嫌いがあったのは中学生くらいまでだったように思う。

一つは茗荷。
これは子供には馴染めないような味だと思う。
大人になると、これを一品入れることで、味がぐっと良くなる料理もある。
今は大好きで、猫の額のような庭に植えている。
去年はここから5~6個ほど収穫したように思う。
今年も茎がどんどん伸びてきたので、収穫しようと、畑に入ったら、もう収穫の時期を逸したのもあった。
丁度の物と、これからの物と、少ないけど、こまめに覗いてみないといけない、自然からの贈り物だから。

次はチーズ
食べず嫌い、だと思う。

子供の頃のおかずと言えば、生、及び煮るか焼くか、で、サラダ類や炒め物などはほとんどなかったような気がする。
今では食べることはできますが、これに先に手を伸ばすことはありません。
残してはいけないときは先に食べてしまうし、残しても大丈夫な時は食べません。
家族の誰かに譲るときが多いです。

あと一つはチョコレート
これが嫌いな人にはお目にかかったことがない。
ほとんどのお子さんは大好きな菓子の筆頭ではないだろうか。

私の場合はこれも食べず嫌い。
昭和22年生まれで、終戦後の物のない時代に育っている。
食べ物がそこそこ出回り始めたのは、昭和30年ごろからのように聞いている。
育ったのは太平洋を前にした高知県の小さな田舎。
後ろは山並みが続いている。
海と砂浜、バスがやっと通れるような道の向こうに、畑があり、その一部に小さな家が建って
いるような集落で育った。

遊ぶ場所は、砂浜か、裏山だった。
砂浜の向こうは太平洋の大海原、魚は捕り放題。
父は5歳の時から病身だった親の代わりに、親の仲間の漁師に連れられて、
海に出ていたようだ。
この漁師仲間は、生活の成り立たない父の家族に、息子の稼ぎだと言って、
魚を分けてくれたという。この頃の人は、貧しいながらも助け合いの精神が強かったように思う。
父が言うには8歳ぐらいの時にはほぼ一人前の働きをしていたという。

家には魚はいつもあった。他にもイモや野菜や、木々になる、柿、梅、ビワなどはあったが、飴玉や菓子などの買わないといけないものはまるでなかった。
だから初めてチョコレートを食べたのは、田舎を離れて、町に出てきてからだから、小学校に通い始めたくらいだったろうか、
体が受け付けなかった。

同じように育った兄や姉はすぐ慣れたようだが、私はなかなかあの味には馴染めなかった。
「チョコレートが嫌い」と言うと、たいていの人がびっくりする。
食べようとずっと努力をしたのですが難しかった。
やっと食べることができたのは、クリームチョコレートを食べてからだったと思う。
今考えると、板チョコの方が食べやすい気がするのですが、こればっかりはなぜかわかりません。

このせいかどうかはわかりませんが、私は子供の頃から虫歯がなかった。
今は治療していない歯がない状態。

こんなことなら、ずっと嫌いなままでいた方がよかったかもなんて思ったりしている。





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2018/07/17 Tue. 00:00 | trackback: -- | comment: 6edit